家族は犠牲になっているのか?
数日前に夫は言った。
次は俺が娘の弁当作ろうか?と。前日に作ってたらいいんちゃうか?とも。
実際は、私が帰宅すると子供と共に就寝され、弁当準備の形跡はなかった。おい!って思った。そのまま何もせずに寝ようかと思ったけど、準備して寝たよ。
朝起きて弁当の準備した。夫はいつも通り子どもと共に起きてきた。おい!
弁当の詰め込みを依頼して私は出勤。
あー。今日弁当かー。やって。おい!
そりゃ、私だって弁当忘れる日あるわ。次回は絶対作れよ!って思う。
同僚がとても頑張っている。課題解決、新たな取組みの提案のために、たたき台を共に作っては壊されてる。週末や夜にも電話したり、話し合ったり。こんだけやってるんやけど、私たちのためにと言って、事細かく修正されている。そこまでするなら、最初から一言一句言うて欲しいと思う。
やるせない気持ちと少しずつ形になってることで、向かっ腹とやるぞーって気持ちが両方だ。
そこで同僚が言ったこと。
こんなに家族を犠牲にしている、ほんま我が家もやばいんやけど、ここでやらなかったら後悔するからやってる。って。このエネルギーは素晴らしい。
私は父母と同居してるし、大変にサポートしていただいている。私は家族を犠牲にしているのだろうか。と疑問が湧いた。たしかに、子供達と過ごす時間は減った。昨日はもう寝てたもんね。だけど、私、ここで無理や。家族犠牲やって言うてたら、これ以上の変化無理やん。次があるからなのか。家族を犠牲にしてるってことに疑問になっているのだろうか。
いや、やっぱりそこは犠牲ってのが家族ではなくて自分が我慢してるとこにあるのかもしれない。人のことは分からんが。そこまでやらなあかんのか?って夫にも言われたが、やらなあかんってより、やりたいからやってる。また、犠牲よりも家族に役割が増えて良いのじゃないかとも思う。母の負担にはなってるかもしれへんが、夫はそのレベルまではやって欲しいと思う。待てよ。これだと、私が余裕ない時だけ夫がやるってなってる。そこが夫が家事育児に参加しなくても良いと言う思考になるのだろうか。私は、そこまで自分が極限にならないと夫に任せられないのだろうか。私がやっちゃうから。。。
モヤモヤをまだ言語化できへんが、私、母がニコニコなのが良し。眠くて体もだるいが、今日も朝起きて仕事に行けてる。もっと睡眠が欲しい。そこ大事にしたいな。うむむ。今日は早く寝たい。
さぁ。今日はどんな1日になるかなぁ。
あぁ。今日も幸せ。いつも幸せ。